日頃気になった事や、ステキな出会い(人も物も
そういったモノを何かで残してみたい
そんなブログ。


※ネガティブテイストな詩はLinkより別ページになります。
「どんなもんかな」と思ってくださった方、いらっしゃいましたら御覧下さいませ。

2013年08月14日

近況s


風立ちぬを見に行った。一人で。

宮崎駿監督はやっぱり変人だなーと思ったけど、それを好きな自分は変人にはなりそこなってる。
遺憾なことだ。
様々な感想や憶測が飛び交う中、「それはちゃうやろ」と思う度にその想いをむ向ける先が無い事を知る。
それが悲しいというか、虚しいと感じる。何故、自分の中で完結してしまえ無いのか…他人の声を知りたがるのか、それに対して自分の想いを乗せたがるのか。

友人が居れば、恋人が居れば、家族が居れば。満たされない。
もう30年近く生きてるのだから、いい加減「どうしょうも無い事」がある事を割り切れればいいのだけれど、どうも虚しくなってしまっていけない。トモフスキーの言う様に「我に返るスキマを埋めろ」そういう事なんだろう。



ツイッターで知り合った絵を描くお人。詳しい事情は知らなくとも、何やらとある人に自分の絵柄を盗まれたという問題を抱えている様だった。
共通のフォロワーさんもその事に憤慨し、様々な言葉を絵柄を盗んだとされる人へと向けていく。荒く、どうしようもない形のまま言葉がやり取りされていく。
正直な話、個人的にはお二人の絵はさほど似ている様には思えなかった。
話の顛末は知らモノの、盗んだとされる人が先にアプローチをかけた様子なので、問題を生み出したのは相手だという部分は間違いないのかもしれない。
更にいえば、盗まれた…つまり被害者とされる方の絵に対して、完全なオリジナリティも感じなかった。お二人とも絵は流石に上手で独自の雰囲気を感じた物の、やはり「どこかで見たことがある絵だな」という感想はぬぐえなかった。
第三者である自分には「更に第三の人物が『お二人は私の絵柄を盗んだ』と騒いだらどうなるのか」と考えてしまったが、おそらく騒ぎは大きくなるだけで解決も沈着もしなかっただろう。そういう方々の争いに見えたのだ。
自分の生み出す物へのプライドがそうさせるのかもしれない。自分は持ち合わせていないそれらが彼らをそうさせているに違いない。要するに理解の範疇を超えていた。
互いがどのような決着を求めているかがまるで見えず、謝罪を求めるのか、絵柄を盗んだことをハッキリと認めさせたかったのか、はたまた盗んでいない事を証明したかったのか…。


「これって〜のパクりだろ」こういう会話は高校生以来聞いてなかった。一時流行る病気の様な物で、自身が至高とする存在を上へ上へと置きたがる傾向がこれを生む。宗教的な思考に近いかもしれない。
長いスパンで見れば、全く新しい存在など無に等しい事を知る。無論、完全な盗作はここから外して考えるが、ある時を境に「そういうものだ。繰り返す物だ」と楽観的に見れるようになる。
馬鹿馬鹿しくて口に出したことも無かったが、ナルトが流行った時に「忍たまのパクリだ」と思った自分が居る。多くの人が「ぇ、どこが?」と思うに違いない。共感者の多い少ないに関係なく、あいまいな盗作疑惑は皆似たようなものではないだろうか?

素直に「貴方様の絵が好きで、影響を受けたと思います。しかし、完全に真似て描いているつもりはありませんでした」と言えば済む。はたまた、盗まれた方も商業的展開をしないのであれば「似せて描かないでください」とは言えない筈なのだ。いや、していたとしても難しい問題だと思う。

詳細を聴けば、もっともっと簡単なやり取りなのかもしれない(それこそ善悪に分けてしまえる話であってほしい)。傍から聞く分には、些か頭が痛い話題に聞こえてしまったというのが最後に至る感想だろう。



夏も残り短い。今年も海には行けそうにも無かったが、秋口に行けたら行きたいな…と思っている。
ビーチコーミング?的な、貝殻や綺麗な石・漂流物を日がな一日集めてみたい。
数年前に仕事で屋久島に訪れた際、年甲斐も無く楽しかった思い出が残っているからだ。砂粒が指の隙間に残る感触、それを洗っていく波、再び付着する湿った砂浜。微かな痛みを感じながら、海風に吹かれると心から童子に戻った気になれた。今尚、大人になったとも思わないが、逆行するのは不思議と気持ちがいい。


なんとか生きている。楽観的な性格で良かったなぁと本当に思う。


posted by ゆら帯 at 02:34| 大阪 ☀| Comment(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年03月19日

考えているだけだといけないらしい

近頃は、思ったことを簡単に書ける場所…ツイッターで吐露してしまってる。
そのせいなのか、ブログが本当のお飾りになっちゃって機能をしていない。
言葉が短くなって足りるようになったのか
短い言葉で足りるようにしてしまったのかはわからない。
ただ、誰かに聞いて欲しくてツイッターに書き込んでいる気は殆どない。
覗き見できるメモ帳という認識が一番近いのかも。

最近は時間に余裕があるせいか、どうでも良いようなことをじっくり考えることが増えた。
周囲の人間は慌ただしく対比的で、お前は良いな、こっちは忙しくてうんぬんと言われてしまう事も多い。
僕は自分を守る言葉を作るのが得意だ。それが相手に伝わるか、伝わらないかはわからない。いや、伝わってない事の方が多いけれど得意だ。
「すぐに逃げ道を作ってしまう大人になるな」なんて言葉がドラマに出ていたけれど、僕はその道のプロかもしれない。

ドラマ「とんび」を見ていて色んなことを考えた。
僕は親を恨まずに生きているだろうか?

正直に、何の枷も無く言葉を書いてしまうと、僕は自分という生に満足はしていない。
5体満足で目立った障害も無い。大きな怪我や病気も無いし、生命活動に於いて困る事は殆どない。
それなのに何を満足しないのか?
自分の家は裕福ではない。高校卒業以降は、親のお金を頼りにする事は殆どできない状態だった。
だからお金のことで満足していない? いや、そんな事はない。
父や母は一風変わった人だ。簡単に言えば、世間の人間の趣向とは体半分くらいズレていると思う。
だから、という訳ではないけれど子である自分は彼らの趣味嗜好に近しくなり、そのせいで学生時代には色々と苦労した。
だから教育のことで満足していない?いや、それも違う。

僕は僕自身という生のみに満足をしていない。結局は最後に選ぶのは自分なのだから。
どんな状況で、どんな場所で、何を選んで自分の持ち物にするのか。その全てが答えだ。


「努力」という、おそらく人間が生きるのに1番位必要な物がある。
何をするにしても、自分の基礎能力で届かなければ「努力」の下駄を履かなければ成せることはない。
僕はこの「努力」が出来ない。いや、出来なくなってしまった。
恐らく、本当の意味で努力をしたことが無い人など一人も居ないと思う。そして、その全てが結果につながり報われた人も居ないだろう。逆もまた然りだ。
努力は良い方向に進むと結果につながり、それが自信に変わり、さらなる努力を行う原料になる。
そして悪い方向へ行くと結果につながらず、それは挫折に変わり、次なる努力を行う気を無くしてしまう。
そこで言われるのだ「努力が足りなかったんだ。もっと努力すれば成し遂げられた」と。
恐らく言葉に嘘はない。努力は足りなかったのだろう。

今でも覚えている挫折がある。体育のテストで空中逆上がりをするのがあった。
僕は体を動かすのが下手なりに好きで、体育は苦手ではなかった。
この空中逆上がりも最初は全くできなかったがそれでも諦めず、放課後も公園の鉄棒で練習したりと何度も何度も挑戦を繰り返した。
そしてテストの前日、ようやくコツをつかんだ僕は放課後の公園で空中逆上がりを成功させた。その後も連続で成功し、これでテストは間違いなくクリアするだろうと思った。
しかし当日、僕は空中逆上がりをテストで失敗した。そのショックからか、それ以降一度も成功したためしは無い。
僕はこんな失敗がいくつかある。極端に本番が弱いのだ。苦手だけれど好きだった世界史も、高得点が欲しくて勉強し、特別授業も予備テストも受け、万全だと思っていた当日に全く成果が出なかったこともあった。
世界史の先生に「なんで点が取れないのかわからない」とまで言われた。僕にも分らなかった。
総じていうと、僕は記憶力も殆どない。大好きな物でさえ完璧に覚えていない事柄はある。
そして結果が悪いと「努力が足りないからだ」と言われる。本当にそれだけだろうか?

人間の能力は一定ではない。それは負け惜しみでもなんでもなく、明らかな事実だろう。
しかし、世間の篩はいたって無情だ。形の悪い、無駄にかさばるものは取り除かれてしまう。
それに気が付いた時、僕は逃げ道を作る事に一所懸命になっていた。そんな篩は関係ない。僕は僕の出来る事だけをやって生きるしかない。それでも篩にかけられる時は新たな逃げ道を作るしかない。
気が付くと僕は努力の出来ない人間になってしまっていた。

僕は僕のカルマが定まってしまっている。
それに満足することが出来なかったり、不満に感じる事は沢山あるだろう。
でも親は恨まない。幸せなことだ。
posted by ゆら帯 at 00:03| 大阪 ☔| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年09月26日

盗作について


もやもやを文字に起こしてしまおう。

既にツイート自体は消えてしまっているけれども、石川雅之先生(代表作:もやしもん)がブログ上にて「映画祭で自身初期作の盗作物が投稿された」という事について書かれている。それについてツイッターを解し、色々とあったのだが…
この事について思ったことをつらつらと。


物を創る上で常に付きまとうのが「盗作・盗用」というもので、これは作成者が意図した場合・意図せず偶然重なってしまった場合(本人談)・参考物や影響を受けた物として作品名、著者名を出す場合とがある。
これらは受け手ないし評価する側が見て判断や審査を行うので、当然その評価も分れることがある。

今まで色んな作品が「盗作だ!パクりだ!」と様々な場所で騒がれ、討論されてきた。
それは小説から映画であったり、小説から漫画であったり、端的な設定を抜き出して使っているという物からそっくりそのまま流用したという物まで幅広く存在する。
故にはっきりした盗作・創作のボーダーは存在せず、完全な盗用以外はグレーゾーンで放置される事の方が多いのではないだろうか。
今回の場合、石川先生の「週刊石川雅之」という単行本の中から、ある作品のストーリーが盗用されて映画祭への投稿物として出されていた。内容をそっくりそのまま抜き出されていたとの事なので、完全に意図された盗作であることは間違いがない。
評価を得る場において、他人の作品を自身の創作物として出す行為は認められたものではない。これは周知の事実であり、厚顔無恥そのまま…まさしく面の皮が厚くなければ出来ない行為だろう。
盗まれた側にしてみれば、頭を捻り潰し痛めて生んだ愛子をいとも簡単にかっさらわれたわけで、言葉に表せない感情が怒涛の様に溢れて来るのは想像に難くない。


盗作というのは嫌な物である。
ただ、それは多方面において言える事でもあると思うのだ。

今やメディア大国の日本(世界)において、漫画に始まり多種多様の文化が所狭しと暴れまわり、その量はイチ人間が受取るには手が足りないほど溢れかえっている。
次々と新しい何かが産声を上げ、雛鳥よろしくピーピーと騒ぎ立てるものだから遠く古い過去など目を向けられずにどんどんと嵩む一方になる。
そんな中で疑惑が生まれる。「新作のあれは、過去作のアレの盗作ではないか?」
『アレ』を知る・または愛着を持つ人は口々に「そうだアレの盗作だ!」と騒ぎ始め、『アレ』を知らず、『あれ』を愛する人は「全然違う」「似ているけど部分だけ」「こっちの方が面白い」と反論する。
これは珍しいことでは無く、至る所で似たような問答が起きては喧嘩が始まる。
喧嘩にはならずとも、好きな物を盗作だと言われた側にとっては快くないのは当然で、たとえそれが本当に盗作された作品であっても、自分がそれを面白い・良い物だと思って受け取った事実は変わり様が無いからだ。
こんな議題は、(私が知る限り)古くからは宮沢賢治・手塚治虫・小津安二郎より続いている。


最終的に思うのは、人間が作り・生み出す物において「完全なオリジナル」というのは幻想に近しい程難しいという事だ。
「これは名案だ!世界初だ!」と作り手が思っても、それは今までの多くの経験が生み出したパッチワークであったり、はたまた気が付かないだけの完全盗作かも知れない。これは多くの作り手が認識していると思う。
ここに書いている文章だって、そっくりどこかで読んだ内容をいかにも「私は今こう思う!」と書いているに過ぎないのかもしれない。それほど「オリジナル」という言葉は危うい。
今回の事件の様に、自身の評価を得る様な場では殊更だろう。

どうしたって盗まれた側は怒りと悲しみが湧いて出る。
ただ、今回の場合(すでに映像化されたものがあるとはいえ)紙面にある物を映像に表現した、昇華したという面だけは評価できる。もし、事前に石川先生の元へ申請があったり、アマチュア所以にそこまで出来ずとも(参考図書)として元にした作品の名を出せていたら、一気に物への評価や周囲並び関係者の目は変わるに違いない。オリジナル作品では無くなるものの、漫画という映画とは全くの別物を表現するのは非常に難しい事だろう。(無論、良い映画に出来ていれば…の話ではある)
そうなると、この映画は良い映画か・悪い映画か?という話になってくる。中身はどちらの境遇でも変わることはない。ただ、出展する場と価値観はゴロリと変わってしまうのは確かだが。
この前提は既に「盗作」から足を出ているので、話の議題からはそれてしまうかもしれないが、変化しているのは「公的な評価」だけという点がミソでもある。
完全な盗作にオリジナルもクソも無いと言ってしまえばそれで終わりだが、受け手にとってはそんな事はまるで関係のない話でもあるだろう。

社会に於いて「盗作」は罪であり
創作者に関して「盗作」は絶対悪であり
個人にとって「盗作」は大きな問題では無い。
そして物と言うのは、個人が望み社会が報酬を払い創作者に依頼し個人に届くのだ。



想いは人それぞれである。言ってしまうと仕方がないが、その集合体が人間の生活だ。
受け入れられない想いや、計り知れない感情なんて右を向けば巨万とあるだろう。
ただ私は、成功者は新たな挑戦者が自ら切り開いた道をなぞって歩いてきたのなら、笑顔で蹴り倒して迎えてやればいいのではないか?と思うだけである。

posted by ゆら帯 at 12:07| 大阪 ☀| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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